ただそこにいるだけでいい。
   なにもしないでまったりくつろぐ        


  コチ、コチ、コチ、コチ……。
 壁に掛けられた振り子時計が小気味よく、それでいて静かに時を刻んでいます。
 ボ〜ン、ボ〜ン、ボ〜ン――。
 長針が“12”の字の上に重なると、懐かしい音が時刻の数だけ店内に響きました。
 ここは横浜・伊勢佐木町にある、カフェまったり屋。
 濃茶の木の床、ウッディな家具、古い雑誌やおもちゃ、暖かい色でテープルと心をも照らすライトスタンド……。約7坪で9席のこじんまりとした店内はどこも、どれにも「昭和」の匂いが漂い、まったりとした時間を過ごすのにふさわしい、隠れ家のようなカフェです。
 ここのところあちこちで聞かれる「まったり」という言葉は、1998年の広辞苑に初めて登場。「味わいがまろやかでコクのある有様」と本来は食感を意味していますが、今は時間の流れ方、のんびりとした気分や人の在り方を表す言葉としても使われていて、「マターリ」という言葉も生まれています。
 おいしいものを食べ、飲んで、実家や親戚の家に遊びに来たかのように気ままに過ごせるまったり屋。オーナーの猪野ゆりさんにお話を聞きました。曖昧でつかみどころのない、使う人によって意味が少しずつ異なる言葉どおりに、猪野さんの言葉、緩やかでちょっと儚い感性や生き方も心に“まったり”と広がって、気持ちがラクになってくるようです。

・第1回 店内ではスリッパに履き替えて、まったり〜

――ここは“お洒落”“スタイリッシュ”“キッチュ”といった、主張系のカフェではなさそうですね。
猪野さん 主張はしてるんですけど、ゆるゆる系(笑)。
――店のネーミングは?
猪野さん よくありますよね? カフェの本を見てると「とてもまったりできるお店です」と書かれてることが。「どういう意味なんですか?」とよく聞かれるんですけど、ゆっくりでもなくてゆるゆるで、ボケ〜ッとみたいな感じですね。
――「まったり」は、以前はあんまり使われない言葉でした。
猪野さん そうですよね。「まったり亭」とか「まったり庵」とかいろいろ考えたんですけど、亭は違うな、庵でもないと思って「まったり屋」でいいかなと。
――いい店名です。ホームページには足・目・耳・脳からまったりしていく、と粋なことが書いてありますね。
猪野さん あ、そんなこと書いてありました? 足からまったり……。へぇ〜。あれはホームページを作ってくれた、友達の文章です。
――お客さんにはこんな時間を過ごしてもらいたいとか?
猪野さん う〜ん、自分の世界に入り込んでもらえれば……。しゃべりたい人には私もしゃべるし、あんまり考えてないです(笑)。
――その人なりにくつろいでもらえればそれでいい?
猪野さん うんうん、そうですね。
――店内に入るときはスリッパに履き替えるんですね。
猪野さん 夏は裸足でいいんですけど、足が汚れるのが嫌な人はスリッパを履けばいいし、冬は木の床は結構足が冷えるんで暖かいスリッパもあります。



・第2回 飲んで食べて1人800円でまったり〜

――足からまったりですね。オススメのメニューを教えてください。
猪野さん オススメ……。そんなに………、あぁ、でもコーヒーは自信を持って出しています。知る人ぞ知る、堀口コーヒーから取ってます。堀口さんは豆選びに関しては日本の第一人者だと思うんです。コーヒー講座に行って実際に一度ちゃんと教えてもらいました。ブレンドはキッチリ淹れてます、また下手だけど(苦笑)。
――もっと自慢してくださいよ(苦笑)。その他は?
猪野さん う〜ん。
――前に出ないところがいいですね。しかし、どのメニューも安いです。
猪野さん そうですね。飲み物も2杯分ぐらいは取れるような量で出してます。それくらいないと、ゆっくりできないですよね。飲んですぐなくなっちゃったら寂しいだろうなぁ、と思って。
――追加注文してもらえばいいと思いますけど、いい人ですね〜。
猪野さん お酒の種類は多いです。カクテルの材料はたくさんあるので、いろいろ作れます。
――今度こそ、オススメは?
猪野さん ……。ないです。好きなものを飲んでください。電気ブランはおいしいですよ。
――フードは?
猪野さん 食べ物はポテトグラタンですね。ジャガイモかサツマイモがスープ状になってるんですけど、そのスープがおいしいんです。
――1人で食べて、飲んで1000円でイケそうです。
猪野さん ですね。ビール2本飲んでも800円なんで。
――それで思う存分まったりしてもらいたいなんて、ちょっと浮世離れした商売ですね。
猪野さん ホントですよ。ウチってなんか儲かんない店だなぁ、とかホント思うんですよね。
――暖かい雰囲気に包まれた店内ですから、秋から冬は居心地の良さが増しそうです。
猪野さん そうですね。夏は最悪でした。いつも35度とかで、クーラーはあるんですけど全然効かないし、私はクーラーはダメなんで、もうやめようと思って扇風機だけにしたら、お客さんが可哀想で(笑)。「私もクーラーダメなんで、ちょうどいいです」と言う人が10人に1人ぐらいはいらっしゃるんですけど。8月は、来年は閉めようかと思ってます。閉めて、ヨソに働きに行った方がいいのかなと(苦笑)。
――夕方から夜にオープンするとか?
猪野さん 夕方がまた、暑いんですよ。コンクリートの蓄熱のせいですかね? 夕方からまた暑くなってきて。
――まったりどころか、ぐったりしそう。
猪野さん それいいですね。面白いですねぇ(笑)。

・第3回 保険外交員や演劇もやりながら、食の道へ

――オープンまでをうかがっていきますね。出身は?
猪野さん 秋田です。短大を出た後に、まずは埼玉に来ました。家から出たかったんですよね。真面目に就職活動をしなかったので、求人誌を見てスーパーマーケットの事務みたいなところに入りました。2年くらいして同棲しちゃって今度は東京に出てきて、喫茶店でバイトしたり、生命保険の仕事を3年くらいやったり。その間結婚して子どもを産んだりして、保育園に預けて働いてました。旦那は芝居をしたい人だったんです。やっぱり大学のときに劇団を作って、そっちがメインだったのでちゃんとした就職はしないで、今で言うフリーターみたいな感じで好きなことをやっていましたね。
――保険外交員とは頑張りましたね。
猪野さん 保険をやればお金が稼げると思ったんですよ。とんでもない。中途半端では無理です。稼げるのは一部の人だけなんですよね。
――それでも3年続けた?
猪野さん ぎりぎりのリミットなんです。3年しか置いてもらえなかった。固定給はあったかなぁ、10万とか?(苦笑)。なんとなく自分の好きな世界で生きたいというのは昔からありました。ダンナと知り合って、私はお芝居のような世界があるのかと思ってちょっとだけかじったんです。お芝居だったら自分の好きなストーリー、音楽、舞台装置がすべて詰め込めるから。小劇団がたくさんあった時代にアマチュア劇団を作って、自分でシナリオを書いて1回だけやったことがあったんですけど、それはまったく無理で。そのうち旦那が心を入れ替えて、ちゃんと就職したんです。しばらくは専業主婦をしていたんですけど、また働きたくなって調理補助のバイトを始めました。その後いろいろありまして、今は子どもと2人で生活しています。そのうちに自分のお店を作れば好きなモノだけ詰め込んでいける、と思ったんです。いろいろ調べていくうちにとてつもなくお金がかかることもわかったんですけど、でもなんとなくやりたいなぁと。
――まったり屋開店への第一歩ですね。
猪野さん 30、40歳となってきて、自分の老後とかをよくよく考えていくと、このままずっと調理のパートで生活していくのはどうなんだろう? 歳を取ったら洗い場とかやっててもキツイだろうなぁとか不安もありました。お店があるんだったらそれなりに寂しくないし、やっていける。じゃあ今、機動力があるうちにお金を貯めて始めないと、できなくなるんじゃないかなと、5年くらい前からそう思うようになったんですね。
――それで動き始めた?
猪野さん 掛け持ちでいろいろやりましたね。調理場の仕事が3時で終わると、家の近くのすき家で6時から10時まで働いて、派遣に食事系で登録して土日は他の所へ行って配膳やピザ作りをしたり。それなりに額がどんどん増えていって。
――貯蓄額や時期の目標はあったのですか?
猪野さん 5年のメドはありましたね。500万あればなんとかなるだろうと思っていたので、毎月このぐらい稼げば、1年でこのくらいずつ貯金できる。旦那からも少しお金を送ってもらっているので、5年経てば500万は貯まると思ってました。その頃はデパートのレストランでパートしてたんです。面接に行ったときも「私は店を出したいので」ということを早々に言ってました。そこで仕事してるとサービスって何だろう? と思わされたり、矛盾が多くあったんですよね。

                                          

・第4回 正月も返上で5年間働いて、開業資金の500万円を貯める

――矛盾とは?
猪野さん 些細なことなんですけど、例えば決まったコースメニューがありますよね。お客さんによっては「これは食べたくないから、別のものに変えてくれ」と言われて、店長も言ってくるんです。値段は明らかにアップするし、それをしたらいつも来てくれているお客さんに対するしわ寄せで、出すのが遅くなったりするじゃないですか。
――たいていのみなさんは我慢している
猪野さん そうそう。食べられないんだったら残すか、頼まなければいいのに。店も同じ値段でそれを出してる。これはおかしい、それはサービスではないんじゃないか? と思うようなことがいろいろあったんです。
――でも、人に使われている限りは我慢ですね。
猪野さん そうなんですよね。それが積もり積もってきたのもあったし、お客さんに対して心を込めて出すという、もっと近い関係が欲しかったこともありました。とても勉強になる職場でしたし、フランス料理でまったく知らないことを1から知ることができたのは楽しかったですけど。で、ある程度貯まったこともあったので一軒家を借りるか、買うかして「家カフェ」みたいにしようと考えたんです。でもけれども一軒家なんて買えるもんじゃないし。裁判所で競売物件を見たときは、こんな値段で買えるんだ! と思ったんですけど不動産屋さんに行くと「そんな危ない物には手を出してはいけない。何か曰くがあるから安く出ているんですよ」と言われて“そうか、じゃあそれもダメだな”と思って。
――5年で500万はスゴイですね。
猪野さん そこそこの生活で全然贅沢をしないというか、贅沢はできないので(苦笑)。旦那が送ってくれていたお金はそのまま貯めてました。
――体を壊すようなことはなかった?
猪野さん 1日オフという日がなくて、朝の9時から夜10時まで働いて、家に帰ると11時。1週間で休みは木曜の夜だけとかいうのが結構あったんですよ。正月も朝6時からすき家で、“私は正月から何をやってるんだろう”(笑)。
――目標があるから頑張れたんですしょうか?
猪野さん そうですよね。あんまり苦じゃなかった。もうよく覚えていないんですけど、体を壊すようなことはあまりなかったですね。1カ所の店で朝から夜までだとキツイと思うんですけど、あちこちへ行って環境も人も変わって“ここでは3時間!”とか、半分気楽にやっていたのがよかったのかもしれません。貴重な休みの解放感はありましたね。“あぁ、今日はもう何もないんだぁ”と思って。
――お子さんは多感な頃で、いろいろ難しいことも?
猪野さん ありましたね。一緒に住んでる息子が中3の頃は友達と遊び呆けていて、あんまり学校に行かないとかで、呼び出されたりした時期もありました。

・第5回 このエリア・物件に一目ぼれ。後から知ったあの話、この話

――でも、お母さんが一生懸命頑張っていたから……。
猪野さん 私はいつも朝早く出ていって、夜はすごい遅く帰る日もあったので。ギリギリになって高校に行きたいと言い出して、勉強したりして入学したんですけど、結局入って数カ月でやめましたね。彼もいろいろあって今度19歳になるんですけれども、彼には彼でやりたいことがあるので、バイトもしないでそっちだけをやっているんですけど。
――やっぱり表現ですか?
猪野さん 漫画家になりたいようで、持ち込みする原稿を毎日朝から晩まで書いています。私の方が“すごいなあぁ。こんなに早くからやりたいことをがあって、うらやましいなぁ”と思ってます。
――親譲りでしょうね。店探しは?
猪野さん 最初は普通の不動産やさんをちょっと回ってみたんです。「○○○万ぐらいの資金で家が欲しいんですけどと言ったら、それは無理ですと。“やっぱり無理なんだなぁ”とか思って(苦笑)。3月に店舗専門の不動産やさんに行ってみたら、「どこの区がいいですか?」「中区か南区で」「予算は?」「家賃は○万くらいで」と言ったら何枚か出して下さって、ヒマだったのでちょっと見に行ってみたんです。取りあえずここ(現在地)を外から見て、あまりよく知らなかったんですけど“伊勢佐木モールはスゴイ”というのが頭があったので、ここいいなぁと思って、中も見させてもらって、すぐに決めちゃったんです。
――早っ(笑)。迷いなしですね。よほど気に入ったのでしょうね。
猪野さん う〜ん、なんかそうですねぇ、この狭さとか。初めはにぎやかに見えたんです。こんなににぎやかな通りにあって、家賃○万8000円で。
――店舗にしてはお得かも。
猪野さん 安いですよね。
――周辺相場よりもどのくらい安い感じですか?
猪野さん 相場は……知らない(苦笑)。
――ひと目惚れですね。
猪野さん そうですね、その人なりだと思うんですけど、割と勢いで“これだ!”といっちゃうときがあるので。面倒臭いんですね。他を回ってとかいうのが(苦笑)。
――お気に入りのポイントは?
猪野さん なんだったのかなぁ……。外でどうしようかなぁと思っているとき、同じ不動産屋さんの別の事務員の人が階段を上っていって、他のお客さんを案内しているのが見えたんですよ。多分そうだと思うんですけど“他にも見ている人がいる。今決めなきゃ、他の人に取られちゃう。それは嫌だ”と思って。
――サクラだったりして(笑)。
猪野さん そうかも(笑)。全然違う、上の階の人のお友達とか。
――引き寄せられたのでしょうね。前はどんな人が入っていたのですか?
猪野さん 大昔には歯医者さんが入っていたんですって。その後は知りませんけど、私が入る直前は洋服屋さんが入っていました。でも3カ月ぐらいで撤退したと。中国人がまんじゅうを作っていたとか、あんまりよくないみたいです、ここ。
――回転のいい物件ですね(笑)。
猪野さん そうそう。それを知ったのは、私がここに入ってからなんですけど(笑)。

・第6回 縁側で寝転ぶような感じに。木の床に込めた想い

――全部1人で動いたのですね。相談する人は?
猪野さん いなかったですね。
――頑張って貯めたお金がどんどん出て行くのでしょうね。
猪野さん ですね。百の単位でどんどんどんどんなくなっていく。店自体に300万ぐらいかかっています。その頃はお金もあったし、欲しいものをバンバン買っていたので、別にもったいないなとも思わなかったです。
――男性だったら“これだけお金をかけたんだから!”と力んでしまうところです。インテリアの想いは?
猪野さん ここに入ったときはコンクリートの、まったくのがらんどうの空間だったんです。木の床は欲しかったので、カフェの雑誌を見て、同じようなお店の写真を切り抜いて「こんな感じにしてください。でも予算は200万しかありません。ただ床だけはきちんと作ってください。あとはお任せします」と。
――床の質感、いいですね。
猪野さん 「パインがいいですか? 何がいいですか?」と聞かれてもまったくわからなかったので「普通のでいいです」(笑)。色あいは木目を生かして茶色っぽく、縁側で寝転ぶような感じがいいなぁと思いました。
――椅子に座ってもいいし、寝転んでもいい。“まったり”のポイントですね。机やテーブルはどこから?
猪野さん もともとリサイクル屋さんとか古道具屋さんに行くのが好きだったんです。場所に決める前ですけど、そろそろ始めたいなぁと思っていた頃に黄金町のすぐ近くにあるリサイクル屋さんにたまたま入ったんです。時計とか蓄音機とか、テープルとか“あ〜、いいなぁ”と思うものがたくさんあって、“いつか使おう”と思って最初は小さいものを買っては家に届けてもらってました。不動産屋さんと契約して、店をやろうと思ったときにまたそのお店に行くと、ちょうどいい椅子とかがあるんですよね〜。“次は何が欲しいかなぁ”とか思いながら見に行ったりして“よし、これが欲しい”となったら「配送はいつになるかわかんないんですけど、これとこれを取っておいてください」と話して、少しずつ集めていったんです。8割ぐらいはそのお店で買ったものですね。
――なんでも一点集中ですね。
猪野さん ご縁があるというか、リサイクル屋さんも私が濃い茶色系が好きなのを知ると、これは気に入るんじゃないかと思うものを取っておいてくれてたりして、「今度これが入ったんで、きれいにしておきましたから見てみてください」という感じでした。
――本や雑誌も集めたのですか?
猪野さん もともと家にあったものとか、古本屋とか古本市で買ってきたり、お客様からもらったりしてます。
――イメージをカタチにしていったんですね。
猪野さん そうですね。〔この項、続く〕
                                          

カフェ まったり屋
住 所 神奈川県横浜市中区伊勢佐木町5−130 2F
営 業 火〜金曜 15〜22時
     土・日曜 12〜21時
定 休 月曜


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